「encounter」 〜母の異変と少女との出逢い〜 |
母さんは父さんが死んでから急変した。顔の皺も増えてきたし、白髪も多くなってきた。
でも一番の異変といえば、やはり自身を殴るようになったことだろうか。
父さんは多大な借金を残して死んでいった。母さんに残されたのは父さんが作った借金と、小さな自身一人。母さんはそれから毎日泣き続けた。まだ小さな自身には何故母さんがそんなに泣いているのか分からなかった。でもその涙が父さんの死に向けられているものではないことだけは何となく分かった。
母さんはパートに出るようになった。借金を返すために昼間はスーパーで働いて、夜はお水で働いてた。その頃の母さんは必死だったんだ、物凄く辛かったんだ。
ある日自身は、帰宅した母さんに駆け寄った。『おかえり』そう笑顔で言ったんだ。けど返ってきたのは頬を殴られる引き裂かれるような痛みだった。それが初めて母さんに殴られた瞬間だった。だけど自身は必死に痛みに耐えて、泣かずにまた笑顔を返した。毎朝疲れて帰ってくる母さんの姿を知っていたから。母さんの辛さを知っているからだ。
でも、母さんにとってはその笑顔がとても気に喰わなかったらしい。
「何笑ってんのよ。私を馬鹿にしてるの?あんたはいいわよね!家にいてご飯を待っているだけなんだもの!!」
母さんはそう言って小さな自身の身体を思い切り蹴り飛ばした。狂ったように叫んで自身を殴り続けた。運良くうちの306号室の隣には誰も住んでいなかったため、きっと母さんにとっては声が聞こえなくてラッキーだったと思う。
母さんが暴力を振るうのは今日だけだと自身は思っていた。明日になれば母さんは何時もの優しい笑顔に戻ってくれると、自分でそう信じていた。その為に自身が耐えれば良いのだ、と。
けどそうではなかった。母さんは毎日のように自身を殴るようになった。スーパーで働くのを止め、お水一本になった。それからよく母さんが男を家に連れてくるようになってきた。二人の声を聞いているのが嫌で、ずっと耳を塞いでいた。
「何よあんた。お腹が空いたの?自分で探してきなさい」
腹の音を聞いて、母さんは玄関を指差す。外で何かを拾ってこい、そう言いたいのだ。自身は母さんの命令に全て従い、絶対に泣きはしなかった。
まだ記憶の片隅に残っている暖かな笑顔を、未だに信じていたのだ。何をされても痣を作らされても、まだ自身は母さんのことが好きだった。今の母さんの悪魔のような微笑みは全て幻想だと思うことにしていた。
家から出ても食べ物にはありつけなかった。とりあえず近くにある公園にいって、そっとベンチに座った。今の季節は真冬で、辺りは真っ白になっていた。薄着の半袖から見える細い腕に鳥肌が浮き出た。
ベンチのひんやりとした温度が地肌に触れて、凍え死になりそうだった。
『なつめちゃん』
ふと真っ白な空に思い浮かぶのはあの頃の母さんの暖かな笑顔で。今となってはその笑顔を見ることはない。あの頃の母さんは自身の名前を呼んで、ぎゅっと抱き締めてくれた。
今の母さんは自身の名前を呼んでくれない。自身を指す言葉は『あんた』か『お前』だ。それを考えるとすごく辛かったけど、母さんを信じているから溢れてくる感情を無理矢理押し殺した。
寒い。寒い。
それに、お腹が空いた。
頭がぼんやりする。
そういえば、もう二週間も何も食べてなかったな。
母さん、助けて。
母さん、母さん。
ー誰か…
「大丈夫?」
歪んだ視界にぼんやり映ったのは茶金の髪だった。目をぎゅっと一旦深く瞑り、そっと開けるとそこには自身の顔を覗き込む同い年くらいのツインテールの少女の姿があった。
少女は可愛らしいもくもくのワンピースを着ていて、手には掌くらいのパンを持っていた。雪の欠片のついた長い茶金の髪は微かな光に照らされてきらきらと輝いている。その神々しさに思わず自身は息を呑んだ。
「寒そうやね。ウチの手袋貸してあげる」
「……いや……」
「何遠慮してんのん。後で返してくれればええんよ」
そうふんわり笑って言うと、少女は強引に腕を引っ張ってウサギの刺繍のしてある手袋をはめさせた。その刹那に暖かな温もりが手に伝わり、自身は思わず目を見開いた。こんなに暖かな温もりは、何ヶ月ぶりだろう。
手袋に見惚れていると、何時の間にか少女が自身をまじまじと見詰めてきた。それに気づいた自身は吃驚して思わず間近にある顔から大袈裟に距離をとる。
「…あんたの瞳、赤くて綺麗やね」
少女はそう言って、またふんわりと笑うと、そのまま何も言わずに自身の手に持っていたパンを握らせ、此方に向かってきた祖父らしき人物の方向に走っていった。
ー棗ちゃんの瞳は赤くて綺麗だね。
母さんも昔はよくそう言って笑ってくれた。
けど今は違う。
『あの男と同じ目』
そう言っては自身を殴るようになった。
けど偶然出逢った少女は自身の瞳を見てそう言った。
母さんが前に言ってくれた言葉を。
自分の存在を、見つけてもらえたような感覚だった。
否定された存在を、理解された気分だった。
ー生きている、そう実感できた。
「ばいばい。またね!」
それが少女との出逢いだった。
END
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
続きはありません。ごめんなさい。
とくに連載ブツでもなく、短編もののパラレルです。
虐待を受ける少年(棗)と、ある日そんな棗と出会う少女(蜜柑)。
私の棗の母の想像は実際こうではないのですがこの話にはそうしないといけないため虐待母にしました(本来の私の想像する棗の母は小説の「倖は遠く過ぎても」での棗母です)
続きを書く予定はありませんが、私のこれからの発想でいくと、棗と蜜柑はそれから後はずっと再び会うことはありません。でもいずれまた出会うときがきます。そのときは二人はそんなこと忘れているのですが。でも棗はまだ手袋を持っているんです。そしていつか返す。
実は今施設を題したパラレルものを書いてるんですがこんな感じな話なのです。結構この話とつながってきます。それは連載ものなんですけど私が飽きっぽいので私が全て完結まで書き終えなければ公開はしません。いつものように中途半端で終わるのも申し訳ないので。
まあできるだけ完結させます。